この記事は、もともと教師向けに書いたものです。東日本大震災後1ヶ月後に「先生のための電子メール相談」のHPのコラムで書き、熊本地震後に書きかえています。今回は、それを元に、コロナ禍を意識して再構成しました。
今、私たちは、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)と称する災害の真っただ中にいます。教師など支援者としてお子さんに関わるとき、目の前のお子さんのことをどう理解し、どのようなこころ持ちで、どのように関わろうとしたらよいのでしょうか。この記事は、生活を共にしながら日常的に子どもを支える教師などの子どものお近くにいる支援者に向けたものです。
徹底的により添って理解するためにー感情に注目する
人は黙っている限り、何を考えているのかは分かりません。
他者に見えるのは、【行動】や【感情・身体の状態】です。
一方、その行動を引き出す【場面】は分か ります。ある【場面】から、ある【行動】や【感情・身体の状態】に至るまでの道筋を見て、人は他者の行動の背後にある考えを推測するしかありません。
災害に限りませんが、過去に辛い体験を強く味わった場合ほど、「場面」から「行動」や「感情・身体の状態」までの道筋が、不自然になります。
たとえば、いじめられた体験がある子どもが、周囲から拒絶されたわけでもなく、仲間とちょっとした仲違いをしただけで、その事態はすぐに収まったのに、それ以降、教室に 入ることができなくなってしまうようなことがあります。
この場合、
●【場面】は、「仲間とのちょっとした仲違い」です。
●【行動】は「教室に入れない」ことです。
●【身体の状態】は、本人が苦痛を訴えない限りは見えにくいですが、
●【感情】にどのようなものがあるのかは、比較的想像が付きやすいはずです。
何かの場面を避けるときに起きてくる感情は、その場面を「嫌だ」「恐い」「心配」「緊張」というようなものです。つまり、感情の種類は想像しやすいですし、あまり勘違いはしません。いわゆる「不適応」と言われているものは、場面にそぐわない【行動】をし、そのときに【感情・身体の状態】が通常とは異なる強さの程度を示す場合のことなのです。
このとき、他人に想像がつかないのは、その「感情の強さ」です。
感情の強さ、身体の感覚の不快感の強さを分かること
人はその悲しさ、絶望や、苦しさ、痛さを引き起こす事情が分かり、自分も同じ立場に立てば、きっと同じ程度の強さの感情に支配されるであろうと想像することができます。それができれば、適切に関わることができます。
たとえば、 赤ちゃんが転んで、「あんよ~」と大泣きしながらやってきたとします。足は可哀想に血が滲んでいます。転んでしまったという事情が分かったら、どうするでしょうか。「あらー痛かったわねー」と声をかけます。
このとき、声をかける大人の側も、痛そうな表情をします。泣きながら後ろを振り返り、怒った表情で自分の転んだ石を眺めて、指さすとします。その不満な顔から、怒りが伝わってきます。一緒になって、少し怒った口調で言います。
「あらー、あれで転んだの?あれが悪いんだ。嫌だったねー。(一緒に睨んで)メ!・・・だねー」などと言います。
立場に徹底的に寄り添った理解と、適切な関わりとは、このようなことを指します。
なりきらないと事情は分からないー事情が分からなくても…
ところが、場面にそぐわない感情や行動が見られたときに、関わる側が適切に関われなくなってしまうことがよくあります。これが起きやすくなるのが、今、ここで起きたことではなく、過去に辛く、嫌で、恐い体験があった場合です。
人間の細かい脳の記憶のメカニズムを、ここでは語りませんが、覚えておいてほしいことがあります。
それは、目の前で起きていることと、自分がひどく恐く、辛い体験をしたこととが僅かでも似ていると、 その場面で感じる不快感ではなく、過去の体験で味わった、とてつもない恐怖、辛さ、苦しさの感覚が一挙に浮かび上がってしまうことが、起きてしまうことがある(「不登校の深刻化を防ぐ:感情面の悪化」の記事参照)のです。 感情は理屈ではありません。褒めたり、叱ったりすることでも、変化しません。
このようなときに、どうすれば良いのでしょうか?とにかく、過去の体験の事情がすぐに分からなくても良いのです。まずは、その感情の程度が分からないまでも、どのような種類の感情なのかを見極めて、表情を豊かに、その不快な感情を言葉で表現することが第一の原則になります。
第一の原則:表情を豊かに、その不快な感情を言葉で表現する
具体的には、次のような言葉です。
☆嫌悪、恐怖、不安などでは
…嫌だったね」「恐かったね」「心配だったね」「緊張したね」
☆怒り、悔しさなどでは
…「腹が立った」「むかついたかな?」「くやしいね」
☆悲しみ、寂しさでは
…「残念だね」「くやしいね」「さびしいね」「悲しいね」
☆無表情…強い恐怖があるかも知れないので
…「心配…かな?」「恐い…かな?」
要注意は無表情とぼーっとした表情
以上の場合で、一番要注意なのが、上の「無表情」と「ぼーっとした表情」です。
この表情は、こころの回復を始めることができていない・・・という意味なのです。詳しくは、「解離」の記事をご覧ください。
ぼーっとした表情の場合は、感じないように強いブレーキを踏んでいるので、身体にそっと触れます(今のコロナ禍では触ることはできにくいですが…)。
「どうしたかな?大丈夫?」
表情から感情が読み取れるようになっていったときに、これらのお子さんの回復が始まります。
東日本大震災のときは、マスコミの映像で、お子さんの顔が映るときが多くありました。一ヶ月経過した2011年4月11日時点のHPのメモには以下の記述がありました。
「まだまだ、この無表情とぼーっとした表情は、たくさんのお子さんの顔に見られます。・・・とても気になっています」
お子さんの今はいかがでしょうか?
これらの表情は、活動が一通り済んだとき、笑いが収まったときなどに現れます。表情が安定しない・・・という印象を持つ場合もあります。
災害時に寄り添う|支援者が寄り添うとは(1)
災害時に寄り添う|支援者が寄り添うとは(3)
災害時に寄り添う|支援者が寄り添うとは(4)
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