保護者が安心している…どっしりと構える
2021年5月8日にNPO法人元気プログラム作成委員会の総会が行われました。その後の正会員限定の研修会でお話したことに解説を加えて、4つの記事にしてお伝えしたいと思います。お話ししたことの目次は以下になります。
「子どものこころの成長を支える保護者」の目次
子どものこころの成長とは
「子どものこころの成長を阻むもの」は、「こころの不調」でしょう。その反対は「こころの好調」です。こころが好調なら、子どものこころは成長するに違いありません。
こころの不調=思い通りに動けない!
子どもに限らず、「こころの不調」とは、「自分の思い通りに動けない」ということなのだと思います。
例えば、このようなことです。
元気に過ごしたいのに、不安や緊張したりして、身体が不調になってしまう…
しなきゃいけないのに、やる気が出てこない
学校に行かなきゃならない…だけど、行く気にならない。嫌になちゃって…心配で…行けない。
以上は・・・次のようにまとめられるでしょう。
※不快な感情(恐さ・不安・緊張・怒り・孤独・嫌悪)に圧倒されている。
※過剰な要求(願い・期待)に圧倒されている
こころの好調=思い通りに動ける!
「こころが好調である」とは「思い通りに動ける」ことで、「こころの不調がない」ことです。つまり…
※不快な感情(恐さ・不安・緊張・怒り・孤独・嫌悪)に圧倒されていない。
※過剰な要求(願い・期待)に圧倒されない。
…それは、このように言うことができましょう。
こころに自由がある
保護者が安心していることの意味
保護者のこころの不自由さが、子どものこころを不自由にする
子どものこころが自由でいるためには、保護者も「こころに自由がある」ことが基本になります。
保護者自身のこころが自由であるとは、 不快な感情(恐さ・不安・緊張・怒り・孤独・嫌悪)に圧倒されたりせず、過剰な要求(願い・期待)に圧倒されないことに他なりません。
保護者が、何かをしていないと気が休まらなければ、それは不安がなせる業です。自分が何とかしなければならない…と思い、それで走り出すのは、不安から生まれた怒りのためです。敵がどこにいるのかを見極めないうちに、やみくもに白兵戦を始めてしまうのと同じです。それがどれほど正しいことのように思えても、とても危ういことです。
あるいは、何もできないと考えて、悲嘆に暮れてしまっていたら、どうでしょうか?このままでは、将来が大変なことになると、心配のあまり、そのことばかり考えているとすれば、不快感や過剰な期待や願いに圧倒されいることに他なりません。
保護者のこころが不自由であることは、子ども自身のこころを不自由にしてしまうのです。
保護者のこころが安定し、構えがどっしりとし、安心した心持ちがこころの中心にあるとき、子ども自身に、心身ともに安全に感じられる環境ができあがります。
保護者の安心感が、子どものこころを自由にしていくのです。
こころが不自由なときに起きやすいこと
自分を責めていないか?ー過去は変えられない
人が自分を責めるとき、過去の時点に立ち戻って、それを追体験しがちです。「こうすればよかった」「ああしなければよかった」と、仮定法過去で考えてしまいがちです。保護者でよくあるのは、「自分の育て方が間違っていた」や、「家族が、ああしなければよかったのに…」と反省しきりになります。
残念なことに、他人を変えるのは至難の業ですし、過去を変えるのは不可能です。反省しても得るものは実は少ないのです。「過去と他人は変えられない」のです。この言葉は至言です。
仮定法過去で考えている限り、反省は実らず、先に進めなくなりますし、安心から程遠くなっていきます。
過去の自分になって、「過去の自分が、何を感じ、何を考え、どう振る舞っていた」と思い返すことは、避けた方がよいのです。とくに、「ああすれば良かった」と仮定法過去で考えないようにしましょう。
子どもを責めていないか?ー他者を変えられない
保護者が子どもを責めることは、子どもに悪影響を及ぼします。こころが不調のこどもは、思い通りに動けません。その子どもに「動け!」と言っても無理なのです。自分の思い通りに動けないのに、他の人の言う通りに動けるはずもないのです。その子どもを責めることは逆効果です。子どもを責めることで、保護者の期待が子どもに過剰に伝わります。
不登校の初期の段階で、学校に行きたがらないお子さんに学校に行くように保護者が頑張り、動けない子どもを責め、事態をこじらせることも本当によくあります。
子どもを変化させたい気持ちが強くなり過ぎているからなのです。始末に悪いことに、感情的になると、頭ではよくないと思っても、必要以上に責めてしまいがちです。そうなると、子どもは不快な感情に圧倒されてしまいます。
そのようなとき、多くの場合は、保護者自身が他者の視線を意識し、他者からどう評価されているのかを気にしていることが少なくありません。
思い通りに動けなくなっている子どもを責めてしまうとき、責めたくなってしまうとき、誰のためにそれをしたくなっているのかを考えましょう。
「○○のこども」と思っていないだろうか?
お子さんのことを、「不登校の子ども」「発達障害の子ども」「自分の子ども」と思い過ぎていませんでしょうか?必ずしもそれは悪いことだとは言えないのですが、「〇〇の子ども」という考え方は、固定化し過ぎると悪いように作用するときがあります。
お子さんへの接し方に迷っているときに、専門家の助言を得て、それまでの関わり方を変えようとしているとき、「この子は不登校なのだから…」「この子は発達障害で〇〇の特性があるのだから…」とご自分に言い聞かせていることもあります。
たとえば、「ADHDの子ども」と思うことで、一つひとつ親御さんとしての関わり方を修正して学び直すときがあります。車の運転を覚えるときには、動作を自分に一つひとつ言い聞かせます。そのように、最初は関わり方を意識して、自分に言い聞かせる言葉として、「ADHDの子ども」と自分に言い聞かせるには役に立つ言葉でしょう。
ただ、その言葉は、子どもへの関わり方の修正時に役立つものであって、「わが子はわが子だ」ということを忘れないようにしたいのです。
また、「わが子」や「自分の子ども」の言葉も、子どもが育つには大切にしたい言葉です。親バカという言葉もありますが、「私の子どもは特別」の感覚がなければ、子どもとの愛着関係が生じませんし、その感覚の不足は、愛着上の課題を子どもに与えます。
ただし、この「自分の子ども」「わが子」の言葉は、子どもが巣立っていくときには、親子のこころを不自由にしていく言葉になります。「タロウはタロウ」なのです。「ハナコはハナコ」なのです。
一人の人間の存在として尊重する目で、わが子をときどき、
「〇〇は〇〇」と見ることも必要であるかも知れません。
心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな
この言葉は、江戸時代、沢庵禅師が「不動智神妙禄」に書いた言葉だと言われています。簡単に言えば、「心が、心を惑わすのだよ。いいか、お前さんの心はあっちにこっちにぶれるから、しっかり心を管理しておけよ」ということのようです。
こころがブレないことが大事なのではありません。ブレていることを意識して、こころの重心を意識して、元に復することを意識しつづけること…を大切にしたいと思います。
こころは、こころの中を流れるさまざまな事に囚われます。そのため、こころがブレそうになります。そこで、ブレ過ぎを防ぐには、客観的な目を外に置き、自身を客観的にチェックし、修正できればよいと、沢庵禅師は言っているようです。
そのことが、「どっしりと構える」とも「安定している」ことに繋がります。そのことは、「安心」した心持ちがこころの中心にあると言ってもよいのかも知れません。
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